バンとジュース

サロマには今でも水田がある。現在では町全体で90haほどの面積で、畑全体の面積からするとわずかな面積だが、稲作の北限地帯となっているサロマ町の中で、タケダの住んでいる啓生地区はサロマ一の米所で、ほとんどの家で米を作っている。
そんな水田に囲まれた中にタケダの家はあるが、春、水田に水を引き、代かきが始まる頃、カエルが鳴き始める。はじめは気の早いヤツが一匹、二匹と申し分けなさそうに「ゲコ、ゲコ」と鳴き始める。そして、温度が一気に上昇した日を迎えると、どこにそんなに居るんだろう?と思うほどのカエルの大合唱が始まり、春本番の到来を教えてくれる。

カエルの大合唱はステレオサラウンドで、「ゲコ、ゲコ」ウエーブは日暮れから深夜まで、時期は6月下旬頃まで続く。生まれてからずっとこれを聞いているタケダにとっては子守り歌のようなもので、妙に心が落ち着き、すぐに眠りに入れるのだが、どちらかと言えば市街地に住んでいた家内は、結婚当初、うるさくて眠れなかったそうである。

5月下旬から6月上旬、一斉に田植えがはじまり、地域もにわかに活気付いてくる。今では田植え機を使って作業をするが、タケダが小学生の頃はまだ手植えで、町の中の女性が「でめんさん」と呼ばれて、十数人アルバイトや手間買いで農家に出向き田植えをしていた。
子どもにとっても学校が終わると一目散に家に帰りたくなる、お祭りのように心燃え上がるような気分にさせる魅力を「田植え」は持っていた。
なんたって、家に帰ると「でめんさん」達の休憩時のパンとジュースが、自分達にももらえるのである。ただのアンパン一個とビニール容器に入ったオレンジジュース一本だが、当時それは、学校からの帰り道を徒歩から駆け足に替える力を持っていた。

タケダが小学一年生の頃(昭和42年)、学校から帰っても、みんな畑で仕事をしていて家には誰もいなく、自分で畑から大根を一本抜いてきてポンプ(井戸水)で泥を洗い流し、それを丸かじり。これがおやつだった。
その後は牛乳を鍋に入れて沸かし、高温になった牛乳にデンプンを混ぜるとゼリー状に固まり、それに砂糖を混ぜて食べる。名付けて「牛乳プリン」。毎日のように学校から帰って、誰もいない家で自分で作って食べていた。
そんな時代である。田植えの手伝いなどしなくてもパンとジュースはもらえるのだが、学校から帰った後、わざわざ畑に行って温床ハウスで苗取りを手伝ったりした。

タケダの母も近所の家に「でめんさん」として田植えに行っていた。そして帰りにはタケダと4歳下の妹の二人にパンとジュースを持って帰って来てくれた。有り余るほどおやつを買ったり、あまった分を配り分けるほど余裕のあった時代ではないと思う。そうすると、あのパンとジュースは母が食べるものも食べないで持って帰ってくれた我が子への「愛情」だったのか…
貧しい時代だったからこそ、あったのかもしれない、本当に親が子を思う気持ち。物が、食べ物が有り余る今の時代、親が子を思う気持ちを我が子はどのように理解してくれているのだろう…