じいちゃんの涙

ケダは農家の長男として昭和36年11月に生まれた。タケダの記憶にある幼年時代、昭和40年代初期、我が家では牛、豚、にわとりをはじめ山羊もいた。馬は当然ながら農耕の主役で、確か2頭いたように記憶している。じいちゃんや父さんが「オーヨ!オーヨ!」って力を込めながら馬を引きプラオで畑を起し、歩道車、秋には田んぼから稲を山盛り積んだ馬橇を引く、力強い馬の姿が記憶の奥底に残っている。

冬、吹雪になると除雪車が来る、なんて言う時代ではなく、ドンコロと言う大きな木の切り株を馬が引いて、道を開けていた。そして牛乳は輸送缶に入れトラックで運搬していたが、吹雪になると車が通れないので各自馬橇で3kmほど離れた集荷場まで運ぶのだが、その馬橇に乗るのがとても楽しみだった。その名残ではないと思うが、今でも吹雪になるとなんとなくワクワクどきどきして、妙に窓の外をのぞき、外へ出てみたくなる、あの頃と少しも変わっていない気持ちがよみがえってくるようだ。
記憶では、父さんがトラックを買ったのはタケダが小学生3、4年生の頃。トラクターは5年生のとき、乗用車にあっては中学2年生の頃だったと思う。昭和40年代後半、農業の近代化の波に反比例して、馬の役割はだんだんと少なくなり、中学生の頃には堆肥製造用または愛玩用として、1頭だけをじいちゃんが世話していた。

中学3年生の修学旅行に行く前の休日には、畑に点在して山盛りにされた堆肥を母さんと二人でフォークを使って畑に撒き散らす仕事をさせたれた。風の強い春先の仕事である。風上に撒くと 堆肥のしぶきが降りかかってくるのである。いやな仕事だったなぁ…。仕事を手伝わせる母さんの殺し文句「仕事しないと修学旅行の小遣いやらないよ!」 今思うと、しぶしぶ手伝っていたんだと思うが、えらいなぁ と我ながら感心したり、今の子どもだったら絶対しないよな…と考えたり…やっぱりそういう時代だったのだと自分で納得したり…

そして、タケダが高校2年生のとき、ついに最後の馬を売ってしまう時が来た。その日は日曜日だったのか夏休み中だったのか、タケダも自宅にいてその光景を見ていた。多分馬もすんなりとは車に乗ったりはしないと思う。牛だって売られていくときは渾身の力でふんばってトラックの荷台に乗ろうとはせず、何人もの大人が前から後ろから押し上げて、やっとこ連れて行くのである。その時、あの大きくエメラルド色に澄んだ牛の目から涙が零れたのをタケダは見たことがある。動物の持って生まれた「カン」でその後の運命がわかっているかのごとく。
しかし、我が家の最後の馬がどんなふうに連れて行かれたかはまったく覚えていない。きっと、馬を乗せたトラックを見えなくなるまで見届けた後、じいちゃんが馬小屋の中で後ろ向きに仁王立ちになり、肩を震わせながら泣いていたのを見たことが、余りにも衝撃的に記憶しているからだと思う。じいちゃんの涙は後にも先にも、この時しか記憶がない。

ガソリンを入れて動き、故障すれば部品を交換してよみがえるトラクターとは違う。何十年もの間毎日餌をやり、毛並みをそろえ、時には怒り、時には励まし、人間と馬とが一体となって厳しい時代を生き抜いてきた。ともすれば我が子以上の存在だったかもしれない。そんなじいちゃんの気持ちを察すると、タケダも胸が詰まる思いをしていたにちがいない。
昔話のようだが、たった20年ほど前の話である。